ヘッドフォンのプロが語る、ヘッドフォンの過去〜未来。その1.モニター・ヘッドフォンの標準機 MDR-CD900ST誕生秘話

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音楽業界のデファクト・スタンダードとして30年以上に渡って愛され続けている、ソニーの「MDR-CD900ST」。ミュージシャンやエンジニアならば知らない人はいないであろう、定番中の定番ヘッドフォンです。そのサウンドは多くの方が知る所だと思いますが、そのサウンドがいかにして作られているのかを把握している人は少ないのではないでしょうか?

そこで、「MDR-CD900ST」の生みの親(開発者)である、ソニーホームエンタテインメント&サウンドプロダクツ株式会社 V&S事業本部のシニア音響アーキテクト投野耕治氏に、開発秘話や音作りの秘密、そして現代の音楽シーンの中でのヘッドフォンの存在と変化。さらには昨年発売されて大きな話題になった次世代スタジオ・モニター「MDR-M1ST」や最新のハイレゾ対応モデルやノイズキャンセリングヘッドフォンなどの選び方まで色々なお話を伺ってきました。その模様を3週に分けてお送りします。

今回は「MDR-CD900ST」の開発背景や、モニター・サウンドを作り出すための隠された工夫について。生みの親だけが知る開発秘話を紹介します!


編集部:「MDR-CD900ST」が発売されたのが1989年ということで、驚異的なベストセラー・モデルだと思いますが、開発者としてその理由はどこにあったと思われていますか?
投野そうですね。レコードからCDになってからの30年間で、「MDR-CD900ST」で大きく足りない要素が出てこなかったということなのかな? とは思いますね。もちろん当時のベストを尽くして作り上げたヘッドフォンですし、ある程度の期間使って頂くことは想定していました。とは言っても、まさかここまで愛して頂けることになるとは、正直想像していませんでしたね。

「MDR-CD900ST」をはじめ、これまで数々のヘッドフォン・イヤフォンを手がけてきた投野耕治氏

編集部:「MDR-CD900ST」が開発された背景について教えてください。
投野ソニーは、これまで50年以上に渡ってヘッドフォンを開発してきました。中でも大きな転機となったのが1979年に発売した「ウォークマン」の存在です。

それまでは、音楽は室内でステレオで楽しむものというのが一般的でしたが、「ウォークマン」の登場によって「音楽を持ち運び、より手軽に楽しむ」ことができるようになりました。すると軽量で持ち運びがしやすいヘッドフォンが求められるようになるのは必然です。また1982年にはCDが発売されました。それまでのレコードというアナログ媒体からCDというデジタル媒体への変化は、サウンド面にも大きな変化をもたらしました。

色々な要素がありますが、例えば、「低域の伸び」は大きな変化点だったと思います。レコードやカセットテープには、あまり低域を入れることができませんでしたが、CDが登場したことで、本来あった(カットされる前の)低域を再生できるようになったのです。ならば、ソニーとしてもその新しいフォーマットに対応したヘッドフォンを作ろう、という話になりました。

そうして1985年に「MDR-CD900」というモデルを作りました(同シリーズには700, 500等のラインナップがあり、そのフラッグシップが900)。これは民生用つまり音楽鑑賞用として開発したのですが、このモデルはとても評判が良く、私たちも「良いものが作れる」という自信につながりました。

この成功もあり、これをCBSソニーのスタジオでも使って欲しいと考えて実際に「使って欲しい」という話を持ちかけたんです。

1978年の「ウォークマン」の登場で、音楽の楽しみ方が激変。ヘッドフォンも一気に進化を遂げました。

編集部:それまでのCBSソニーのモニター環境はどのようなものだったのでしょうか。
投野藤木電器という、日本で一番歴史のある老舗メーカーのヘッドフォンが使われていました。実はソニーも最初にヘッドフォンを作り始める際には藤木電器さんにノウハウを伝授して貰ったりと、いわば師弟の関係なんです。

私たちとしては自信を持って持ち込んだ「MDR-CD900」でしたが、「この音ではモニターには使えない」と受け入れてもらうことはできませんでした。それならば! と一緒に音作りをさせて欲しいとお願いし、そこから900STの音作りが始まることになりました。

編集部:音作りには、どの位の期間がかかったのでしょうか。
投野:最終的にOKを頂くまで、およそ3年間です。

編集部:そんなに掛かったんですか!?
投野:はい。レコーディング・スタジオのエンジニアが求めていたモニター・サウンドは、それまで私たちが考えてきたものとは、色々な違いがありました。その差を埋めるのに時間が掛かってしまったんですね。

編集部:具体的に、どのような違いがあるのでしょうか。
投野一番の違いは「原音」の考え方ですね。鑑賞用のヘッドフォンですと、例えば演奏をホールで聴いたときに、客席で聴いているような、ホールの響きを含めた臨場感のあるサウンドを目指す訳です。しかし、エンジニアやアーティストが求めていたのは、いつも自分が聴いている音。つまり演奏者が歌ったり演奏したりする際に直接聴いている音だったんです。

ミュージシャンの方ならおわかり頂けると思いますが、人間は自分の音を聴きながら、音程や音量、調子を調整しています。ボーカルで例えると、自分のいつも聴いている自分の声を基準に、聴いている音に対して変化を与えていきます。もしモニター・ヘッドフォンで帰ってくる自分の声がキンキンした音で聞こえたとしたら、無意識にソフトに歌ってしまうという具合です。だから、できるだけ自分がいつも聴いている音でモニターすることがとても大切です。

これはミュージシャンやエンジニアに限った話ではありません。ヘッドフォンやイヤホンをしている人に話しかけたら、いつもより何倍も大きな声で話しかけられた。というのは、多くの方が経験あるのではないでしょうか? 自分がどんな音を出しているのかが正確にわからないと、人間は適切な調整ができないんです。

少し話しがそれてしまいましたが、自分の出している音をいつも聴こえてくる距離感で聴きたい。エンジニアであれば、マイクと音源の距離をダイレクトに聴きたい。そしてリバーブ等のエフェクトを掛けた時に、エフェクトの変化が細部まで聴き分けることができる。そういった表現がスタジオでは求められたのです。

編集部:その結果、生まれたのが「MDR-CD900ST」だったんですね!
投野厳密に言えば、最初に作ったのは「MDR-CD900CBS」というモデルです。当時の信濃町と六本木にあったCBSソニーのスタジオ内で使うためだけのモデルで、一般発売は考えていませんでした。

ちなみに、音作りの中で最終的にスタジオからOKをもらったサンプルは2種類ありました。1つは藤木電器のモデルに近い、昔ながらのレンジが狭めで柔らかいサウンドに寄せた「Bタイプ」。もう1つはこれからのCD時代にも対応できるようにややレンジを広げた「Aタイプ」を試作し、両スタジオの意見を聞いたんです。どちらも良いという評価を頂いたのですが、信濃町スタジオはAタイプを。六本木スタジオはBタイプが好みだったようです。

その結果を踏まえて検討した結果、「CD時代のこれからのスタンダード」という視点からワイドレンジなAタイプを正式採用することになりました。

テイストの異なる2タイプを試作。最終的には、レンジの広いタイプが正式採用された。

編集部:当初は一般販売の予定はなかったということですが、販売されることになった理由は何だったのでしょうか?

投野一言でいえば、購入したいという声を多数頂いたからです。「MDR-CD900CBS」は採用当初から非常に評判が良く、CBSソニーのスタジオでそのサウンドを体験したミュージシャンが、他のスタジオで「このスタジオには、あのヘッドフォンはないの?」と言って頂いたり、ミュージシャン間の口コミがどんどん一般のリスナーの方にも広がり。ソニーは何もプロモーション活動をしていなかったのですが、「MDR-CD900CBS」を使いたい! という声が各所から聞こえてくるようになりました。

一般販売をするにあたり、リスナーの方にも楽しんで欲しいという意味を込めてモデル名からCBSを削り、代わりにSTUDIOを表す「ST」を付けました。

編集部:「MDR-CD900ST」を発売するに当たり、「MDR-CD900CBS」から何か改良や調整は加えられたのでしょうか?

投野基本的には同じ物と考えて頂いて問題ありません。厳密には、製品名のラベルとコード長を少し短くしましたが、サウンドに関わる部分は変えていません。

編集部:同じスタジオ・モニターに「MDR-7506」というモデルもありますが、「MDR-CD900ST」とは何が違うのでしょうか。

投野MDR-7506」は、折りたたみ機構やカールコードといった携帯性を持たせたモデルで、放送局等でも多くご利用頂いているモデルです。7506900STに比べて少し帯域を広めに取っています。

これはアメリカのスタジオの好みに合わせたチューニングで、テイストの違いといったところでしょうか。モニター・ヘッドフォンとしての音作りの基本部分はどちらのモデルも共通ですので、音の好みに合わせて使い分けてください。

編集部:ちなみに…。「MDR-CD900ST」の製品名には、どのような意味が込められているのでしょうか?

投野MDRというのは、Micro Dynamic Receiverの頭文字を取っています。ヘッドフォンのルーツは電話の受話器で、「Receiver」とも呼ばれていたのですが、今のヘッドフォンでも使われている小型ドライバーが登場した際に、これまでとは違った小型なドライバー、という意味を込めてMicroと付けたんです。その後に続くCDCD時代音を追求するという意味で、STはスタジオ・モデルの略です。

藤木電器のモデルから、試作品を含む歴代のスタジオ・モニター。

編集部:ヘッドフォンの音作りやチューニングは、具体的にどのようなことをしているのでしょうか?

投野「ドライバーユニット」と「筐体」の2つの視点から、出したいサウンドによって調整していきます。
ドライバーユニットであれば、振動板の厚さや材料の硬さ、形状、ボイスコイルの材質や電気抵抗などを変化させていきます。例えばボイスコイルは重くなるほど再生音の周波数全体が下にシフトしていくなんて具合ですね。筐体側では、空気の通気量を変えてサウンドをコントロールします。これを通気抵抗と呼びます。
どちらも効いてくる帯域やサウンドに違いがあります。低音と一言で言っても、重たい低域なのかパンチの効いた低域なのかによって帯域が変わってきますよね? 人の声でも同じです。女性の声が綺麗に聴こえる帯域と、男性ボーカルが深みを持って聴こえる帯域は違うので、どのような音を目指すのかで弄るパラメーターが変わってきます。

編集部:通気抵抗という言葉は聞き慣れないのですが、どのようなものなのでしょうか?

投野エフェクターなどの電気回路では、コンデンサや抵抗といった部品を組み合わせたり入れ替えたりすることで特性を作っていきますが、音響の場合は電気回路のパーツに当たる部分を穴の大きさや部屋の容積といったパラメーターに置き換えて考えていきます。通気抵抗というのは、読んで字のごとく空気が通ることで生まれる抵抗です。

編集部:む、難しいですね…。

投野具体的にお話しましょう。ヘッドフォンの場合、装着するとドライバーユニットと耳の間で部屋ができますよね。その部屋が閉じていくほど空気の漏れも少なくなり、振動板が押しただけ低域が再生されるつまり低域が出るようになります。反対に空気漏れがあると空気と共に低域が減衰していきます。
どれくらい通気させる(音を逃すか)かが、非常に重要になるんです。
ドライバーの反対側でも同じように考えることができます。背面側は空気が抜けやすくすると振動板は動きやすくなりますが、閉じていると後ろの空気が硬く、振動板は動きにくくつまり低音が出にくくなるという仕組みです。
一言で言えば「後ろを開けると低音が出て、前を閉めると低域が出る」訳です。

編集部:絶妙なバランスでできているんですね。

投野:はい。一見シンプルに見えるヘッドフォンも、構造やパーツ1つ1つにすべて意味があるんですよ。例えばイヤパッドの厚みだって重要なパラメーターの1つです。厚みが変わると、耳とイヤカップ内の部屋の容積(サイズ)が変わります。また、よく見て頂くと、その部屋の中にもう一つ仕切りで区切られた小さな部屋ができています。このような構造を工夫することで、ある特定の帯域を強調させることができます。

また、「MDR-CD900ST」を持っている方は、イヤパッドを外してみてください。中に小さな穴が2つ空いているでしょう? これも通気抵抗のチューニングの結果なんです。最初はこの穴を開けていなかったのですが、サンプルをスタジオに持ち込んだときに、「もう少し低域にスピード感が欲しい」と言われました。そこで、その場にあったシャーペンでプスッと穴を開けて聴いて頂いたら「そうそう!これこれ!」と。もちろん量産品はシャーペンで穴を開けている訳ではありませんが(笑)。

編集部:ということは、この穴を塞いだり、追加で開けたりしたら音は変わるということでしょうか?

投野ご存じの通り「MDR-CD900ST」は密閉型のヘッドフォンですが、閉じた筐体の中の音抜き構造で、少しだけオープン・エアの要素を取り入れていたりもします。こういったチューニングと実践、視聴を繰り返しながら出したい音のバランスを取っていきます。「MDR-CD900ST」の場合、1,000回以上は繰り返したと思いますね。

(編集部注:通常の製品の10倍ほどの回数とのこと)

一見シンプルな構造に見えますが、使用する素材からどれ位、空気を逃がすのか…といった細かい部分まで計算し尽くされています。何気なく開けられた2箇所の穴も、重大な意味があったんです!

編集部:チューニングで一番重要なのは、どのような要素なのでしょうか?

投野すべての要素が重要ではありますが、やはり通気のバランスが一番大きいかもしれませんね。ちなみに、ここまでお話した内容は「MDR-CD900ST」に限った特別なチューニングという訳ではなく、リスニング用を含むすべてのヘッドフォンやイヤホンで共通の考え方です。
あとは楽器でも同じですが、使用する素材によっても当然音は変化します。例えば金属の楽器とプラスチックの楽器は、鳴りも音色も別物ですよね? 使用する素材によって、元々の音色が変わってきます。

編集部MDR-CD900ST」では、何か特殊な素材が使われているのでしょうか。またベース・モデルになった「MDR-CD900」から素材変更はあったのでしょうか。

投野いいえ。特殊な素材は一切使っていません。高磁力マグネットや、銅クラッドアルミニウム(CCA)というボイスコイルなど、その当時の新しい素材を使ってはいましたが、決して特殊なものは使っていません。
MDR-CD900」との違いは、一部のパーツで厚みを調整した程度で素材的にはまったく同じ物を使用しています。

編集部:30年間で素材の変化はあったのでしょうか?

投野まったくありません。素材も製造方法も30年間、何一つ変えていません。「MDR-CD900ST」は音作りの基準として使って頂いていますから、これを変えることは許されませんから。なお、最新の「MDR-M1ST」では素材自体も一から見直して設計されています。

編集部:パーツの交換時期についても教えてください。「MDR-CD900ST」は交換パーツも豊富ですが、メンテや交換時期の目安はあるのでしょうか?

投野ケーブルが切れたり、ボイスコイルが切れたりという故障の場合を除いて、音的に影響があるとすれば、イヤパッドでしょうか。潰れてしまったり、皮が剥がれてきてしまったりすると、先ほど紹介したように通気の量が変わってサウンドにも変化が生じてしまうので交換した方が良いですね。ただ、明確に何年といった基準はありませんので、ヘタってきたらということになりますが。

編集部:ヘタってきたと判断する目安はありますか?

投野:潰れ具合や感覚ですね。皮がめくれて破れてきたら変えていただいた方が良いと思います。

編集部:少し話題が戻ってしまいますが、ヘッドフォンの音作りをする際に、どのようなことを考えながら調整していくのですか?

投野:そのヘッドフォンを使う人の視点に立つことを心がけています。例えばスタジオ・モニターであれば、それを使って録音や音作りをされるエンジニアやミュージシャンの。女子高生用のヘッドフォンなら、自分が女子高生になったつもりで聴くんです。この音がキラキラして聞こえたらカワイイ! とか(笑)。

音って主観的な要素が強いと思いますので、どちらの音が良いかというのは、どちらの方が音楽が楽しく聴こえるのかでしかないと思っています。設計者個人の趣味で作っている訳ではありませんので、プロのエンジニアとしては、客観的に音楽を聴かれる方の聴き方に自分を合わせ、その視点で正しく主観で音を評価するというのが大切だと思っています。そのためには、クラシックからロック、アイドルまで色々なジャンルの曲を楽しめる自分でありたいですね。


今回は「MDR-CD900ST」がどのような背景で生まれたのか、その背景を中心にお送りしてきました。次回は「MDR-CD900ST」が作り上げた「モニター・ヘッドフォン」を受け継ぐ最新モデル「MDR-M1ST」や、年々重要度を増しているインイヤーのステージ・モニターについて。引き続き投野氏による貴重なインタビューの模様をお送りします。

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